平成26年10月 福徳神社が蘇る
ビルの谷間にこんなものが出来ちゃいました。
武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号としました。
その鎮座する社地は広く、社殿も宏壮で、社の四隣は森林、あるいは田畑に囲まれ、農家が散在する片田舎でした。土地の人は神社の森を稲荷の森、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいました。
後の明暦三年酉年(一六五七)正月八日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。
当時の人々は、この散乱した碑石の残存した破片を集め保存したと考えられています。
後の明暦三年酉年(一六五七)正月八日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。
当時の人々は、この散乱した碑石の残存した破片を集め保存したと考えられています。
その碑名の移しは次の通りです。
裏 貞観元年卯年
三つき吉祥日
三つき吉祥日
そもそも当社は、元来武将の信仰があつく、源義家朝臣(みなもとのよしいえあそん・一〇三九~一一〇六年)が深く崇敬されていたことが記されていた、と伝わっています。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっています。
芽吹神社御由緒
さらに、二代将軍秀忠公は慶長十九年(一六一四)正月八日に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と賞賛されました。この時、当社古例の椚の皮付きの鳥居に、春の若芽の萌え出でたのをご覧になり、当社の別名を「芽吹神社」とされました。
元和五年(一六一九)二月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納され、さらに「社地縄張を三百三十坪」と定められました。
元和五年(一六一九)二月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納され、さらに「社地縄張を三百三十坪」と定められました。