麺を究める日記

麺の探求がライフワーク

弘前城

高速道路を使い弘前城を見物してきた。
¥1,000は本当に安い、人数が多ければ価値が上がる。
しかし、私は都内に住んでいる為、首都高¥500+連絡道路¥650が加算され¥2,150なのである。
まあ、それでも普通料金と比較すると破格の料金である。
弘前城に行く前に津軽ラーメンを食べたのであるが、その記事はこの記事の後に報告しよう。

弘前城 追手門まで徒歩5分の場所にある、一日¥1,000の駐車場に車を入れる。
そして弘前公園に向かって歩くと、桃色や白の八重桜が満開である。
八重桜の向こうには岩木山の白い頭が見えている。
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更に進むと外濠にぶつかり、左方向に濠沿いに進むと追手門が見えてくる。
弘前城概要

江戸時代には弘前藩津軽氏47,000石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積385,200平方メートルに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、1棟の天守、3棟の櫓、5棟の櫓門が現存する。天守は日本に12箇所残されている現存天守(江戸時代以前に建造された天守を有する城郭)の1つであり、国の重要文化財に指定されている。司馬遼太郎は『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。
※ウィキペディアWikipedia)より引用
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そして追手門を潜り、そのまま辰巳櫓方向に進む。
公園内には八重桜と枝垂れ桜が咲き乱れている。
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中濠にぶつかると辰巳櫓が見える。
素晴らしい景色です。
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左方向に更に進むと未申櫓が見える。
手前には杉の大橋の真っ赤な欄干。
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その奥には堅牢な南内門がある。
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門の先に進み、未申櫓を見学。
未申櫓の向こうに霊峰岩木山が神々しく綺麗であります。
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 櫓・門ほかについて

二の丸の現存櫓は3層の辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓の3棟である。門は、三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門の5棟がそれぞれ築城時の姿で現存し、以上は国の重要文化財に指定されている。このほかに、二の丸東門与力番所が移築復元されている。
前述の通り現在は5棟の城門が残されているが、築城当初は10棟の城門があった。この内のいくつかの門は、工期の短縮などのため、周辺の城郭より移築されている。具体例としては北の郭北門(通称亀甲門)と三の丸北内門(通称賀田門)がそれにあたり、それぞれ大光寺城および大浦城から移築されている。
※ウィキペディアWikipedia)より引用
そして二の丸を北側に進むと下乗橋があり、内堀の向こうに本丸の天守が見えてくる。
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天守

本丸唯一の現存建築である天守は、江戸初期に焼失した5層天守の代用として、江戸時代後期に本丸辰巳櫓を改修し造営された御三階櫓である。昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する現存天守でもある。現在は、独立式層塔型3層3階であるが、明治29年(1896年)ごろまでは北側に多門櫓を付属させ、台所と呼ばれる大型の建物と繋がっていた。
外壁は白漆喰塗籠で、窓と狭間の上下に長押形を施し、また屋根瓦には寒冷地のため粘土製の瓦を用いずに銅瓦を葺いている。1層目と2層目の大きな切妻出窓や、外側に面する東面と南面の窓を狭間窓にし小さな建物を大きく見せる視覚効果を施している点などを見せる一方で、西面と北面には破風を付けずに連子窓を単調に並べただけというほかの天守には見られない個性を持つ。内観は、簡素に造られ、主に倉庫として利用された。当初から畳を敷くことが想定されていなかったため室内に敷居が見られないことも特徴の一つである[2]。
※ウィキペディアWikipedia)より引用
天守最上階から見る霊峰岩木山であります。
この景色を藩主や藩士たちが見たのだろうと思うとワクワクしてきます。
素晴らしい景色です。
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本丸跡には枝垂桜が咲き乱れていました。
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館神跡に進み天守を望む。
この景色も見応えがあります。
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いったん北の郭を出て二の丸を戻ると東内門がある。
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この門もがっちりとした堅牢な建物である。
そして辰巳櫓を見て追手門に戻った。
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見応え充分な弘前城は素晴らしかったですね。
桜が満開の時期にもう一度来て観たいです。